はなぶさむら

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  〈はなぶさむら〉から しばらくぶりです!


八雁短歌会〈横浜歌会〉の有志による短歌交流サークル
「はなぶさむら」を再開します。
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また、関連先として、

ぜひいちど 「Karikomu かりこむ」 を覗いてみてください。

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東京歌会ではそれぞれ主宰・阿木津英出席のもと、
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最晩年の歌(2)大西民子(2) - 政夫

2019/01/02 (Wed) 08:29:29

大西民子

 民子20代 

民子の20代には結婚と夫との諍い・夫の離別・子どもの早死産がある。民子はその時の心情を『まぼろしの椅子』(民子33歳)にまとめている。民子の夫に対する感情は複雑で、夫への恋慕・哀れみ・憎しみである。特徴的な歌をいくつか挙げる。

  無名作家のまま終わるともながく生きよと希ふを君も知り給ふべし
  焦点を故意に外して言ひ合へば夫も他人の一人のごとし
  かの草山に残し来し吾児が墓を思へば漂泊(さすらい)の身の如くはかなし
  死ぬことしか言はず蹌踉たる夫にいつまでも待つと告ぐる外なかりき
共に死なむと言ふ夫を宥め帰しやる冷たきわれと醒めて思ふや

文学好きだった民子は岩手県の盛岡の高等女学校に在学当時、啄木をまねて短歌を作り始めている。17歳のときに奈良女子高等師範学校に入学し、繰り上げ卒業して岩手県釜の高等女子学校の教諭についた(民子20歳)。23歳の時に夫となる大西博(釜石工業学校教諭)と教員組合を通じて知りあった。「夫は小説を書き、私は歌を作って、机を並べて文学の道を行こう」というのが結婚の約束だった。
 二人の間に諍いが始まったのは民子と博が大宮に移り住んだ頃のようである。博は小説で芽がでない一方、民子は歌で注目を浴びるようなった。博はそんな民子に後れを感じ、飲まなかった酒を飲むようになり、ほかの女のもとへ去っていった。次は「歌と随筆」第四巻第二号(昭和24年3月)に掲載された歌(民子24歳)。

愛隣の思ひ烈しききわまりに夫はげしき吾をなじるか  「回顧一年」
                             
夫は夢見た文学の道に生きる方途、上昇の契機を見出すことはできなかったが、妻は、文化会館の仕事にむしろ充実感をもっていそしむ風であることは否定できない。民子はそのことには気づいていた。次の歌は民子が自己を冷静に客観視した一首である。
 
見えざるものを見つめて生くる如きわれに堪え得ざりし夫と今は思ふも 
『まぼろしの椅子』

 民子は結婚の翌年、男児を早死産している。「私の不運の始まりであった」と、後にこの時期を回顧して言っている。釜石時代のことである。その後に続く夫との離別、妹の死があり、民子にとってはまさしく「不運」の連続だった。次の歌は漠然とながらも民子が自らの生涯の「不運」と予感していたことを窺わせる。

みづうみの旅より夜半に帰り来て思ふ寂しき晩年のこと     『同』

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