はなぶさむら
葛原妙子の歌 - 不登校
2018/09/10 (Mon) 07:55:47
葛原妙子 奔馬
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが纍々と子をもてりけり 『橙黄』
「奔馬」とは;やっとわかりました。
川野里子は、こう解釈している。
「奔馬」とはこの時に葛原が得た孤独の表象であり、自らを映す鏡である、と。だが、この解釈ではどうも釈然としない。
短歌の講座(2014年)で、阿木津さんは「奔馬」とは何?、と問われた。私のメモによると、それは青年であり、確かエロスであると言われたように記憶する。私にはその時、それでも分からなかった。
さびしもよわれはもみゆる山川に眩しき金を埋めざりしや 『孤宴』
穴澤芳江が妙子に金とはなんですかと問うたことがある。金とは疎開先で会った将校・恋しい人のことだった。
青年は将校だった。
Re: 葛原妙子の歌 - 智子
2018/09/12 (Wed) 10:20:08
不投稿様
書き込みを何度も拝読致しました。
作者にとってはある特定の実在する将校を詠っているのに、それを奔馬や金と表現することで、歌が普遍的になり、読者が作者へ共感するだけでなく、自身を重ねて読み取ることが出来る歌に成っている点に関心を持ちました。
自分を出発点にしても普遍性を帯びる歌。
大変、面白かったです。
有り難うございます。
Re: 葛原妙子の歌 - 不投稿
2018/09/13 (Thu) 18:23:02
智子さま
妙子は「人間の苦悩も虚構や暗喩を駆使して、人間の本質を」と語っていたし、また、「生あるもののかなしみの感動を普遍的具体的に出すこと、時代が出ていなければいけない」とも言っていた。
原牛の如き海あり束の間 卵白となる太陽の下 『原牛』
妙子は日本海を「原牛」と見、太陽を「卵白」とみて、想像力を膨らませている。
では、次の歌はどうか。
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水 『朱 靈』
「的となるべきゆうぐれの水」とは何?
穴澤芳江は泪ではなかろうか、と言っている。大岡信は「自分が立っている夕暮れの水辺」と見える、と書いた。
妙子はヨーロッパ旅行の「ヴェネツィア詠」で、
ヴェネツィア人(びと)ペストに死に絶えむとし水のみ鈍く光りし夕(ゆふべ)
と、歌っているから、他界にいる自分がヴェネツィアの水をモチーフとして、この世を見ているのではないか。
Re: 葛原妙子の歌 - 智子
2018/09/14 (Fri) 19:32:37
不投稿様
素敵な歌の選歌に驚きました。
有り難うございます。
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水 『朱靈』
逐語訳:他界(この世でない場所)から、もし眺めたならば、やすらかなる目的地となるに違いない、この夕方の水は。
と訳しました。
「眺めてあらば」は「あれば」ではないので、仮定形です。
ヴェネツィア人(びと)ペストに死に絶えむとし水のみ鈍く光りし夕(ゆふべ)
とある様に、葛原妙子氏にとって、水は生きるために必要な大切なものという風に詠われたのかと考えました。
強引ですが、ペストで死に絶えて行くその状況の中で、人々が求める水、悲惨な情景の中、水のみ変わらず鈍く光る。そのことを詠われているのかも知れません。
解釈:この世でないところからつくづく見守ることがあるならば(出来るならば)、やすらかなる目的地となる(目的地に見える)はずである、この夕暮れの水(夕日の色に光る水)は。
と、何とか解釈しましたが、素晴らしいなと思うのが、二首を関連付けても付けなくても、どちらも大きく深いテーマを一首に、無理なく収めている点です。
Re: 葛原妙子の歌 - 不登校
2018/11/17 (Sat) 06:14:21
他界より眺めてあらば
この「しづかなる的」についてはあなたの言われる通り、文法上からすれば、確かに
他界のようなところから眺めてみれば、ということになりますね。
大岡信も「折々の歌」でそのよう解釈しています。それは、現実を超えた他界からこちらをながめやったとき、今立っている「夕暮れの水辺」は「しづかなる的」と見えるだろうと言っています。「あらば」「べき」を仮定と解釈しているのですね。
ところが、葛原本人は、「他界にいるには他ならぬ『我』である」と言っています。ですから、文法を無視しているのでしょう。
Re: 葛原妙子の歌 - 関口
2018/11/17 (Sat) 08:46:56
不登校様
葛原本人は、「他界にいるには他ならぬ『我』である」
という点は、私も同意見です。うまく説明出来ないのですが、「他界のようなところから、もし、私(や他者)が眺めることがあり得るなら」という解釈です。
そして、お願いがあるのですが、冒頭に上げた(葛原本人は、「他界にいるには他ならぬ『我』である」)文章の出典を教えて頂けないでしょうか。
関口拝
Re: 葛原妙子の歌 - 不登校
2018/11/18 (Sun) 10:08:17
関口様
出典は、
『幻想の重量』 川野里子
本阿弥書店
p279-p284
です。
Re: 葛原妙子の歌 - 関口
2018/12/03 (Mon) 17:00:08
不登校様
ようやく、『幻想の重量』を借りることが出来ました。
そして、お尋ねしたいのですが、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
葛原本人は、「他界にいるには他ならぬ『我』である」と言っています。ですから、文法を無視しているのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
の箇所についてです。
私には、葛原妙子氏が「他界にいるには他ならぬ『我』である」ということ=文法を無視している、とはどうしても考えられないのです。
もし、お時間が赦せば、どうしてその様な考えに至ったのか、お聞きしたいです。
関口拝
Re: 葛原妙子の歌 - 不登校
2018/12/04 (Tue) 09:03:33
関口様
作中の主体はどこにいるのかがこの歌の解釈の分かれるところですが、主体は他界に立っていて、こちら側の世界を「しづかなる的」として見ているのであるから、歌としては、こうあるべきです。
他界より眺めてあればしづかなる的となるべきゆふぐれの水
「あらば」->「あれば」とするのが妥当です。
つまり、主体は他界からの眺めを想像して歌を詠んでいますが、これは「仮定法」で詠んでいるわけではないと思えます。「仮定法」だと、解釈はこうなります。
もし、私が他界に立っているのであれば、「しづかなる的」はこちら側になるべきである。でも、本当は、私はこちら側にいるので、「しづかなる的」は自分のいる場所となります。自分のまわりが見える範囲が対象となります。そうすると、主体の視線は、どこか、自分がいるところを中心として見ているにすぎなくなり、焦点がぼやけた見え方になってしまいます。「仮定法」で詠むと、この歌は他界とこちらを哲学的にみる視点が失せてしまい、歌としては深みのないものになり、平凡な歌になってしまいます。
Re: 葛原妙子の歌 - 関口
2018/12/06 (Thu) 08:55:48
不登校様
作中の主体は、どこにいるのか。
私は、歌全体を客観視している位置、つまり、一つの絵を鑑賞するような位置から詠っている、と考えました。
実際の歌の種として葛原妙子氏は「ゆふぐれの水」の側に立っていたのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主体は他界からの眺めを想像して歌を詠んでいます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこは、同意見ですが、
それは、実際には、「『不可能』な『仮定』」です。故に仮定法の未然形になります。
不可能なことを想像力で補って一首にするためには、ここは、「あれば(已然形)」は使えません。どうしても、「あらば(未然形)」でないと、普遍性が出ません。
「あらば」でないとこの歌は成り立ちません。
葛原妙子氏は自身の発想を活かしてこの歌を作っている。実際に「みづうみ」の側に立ったかどうか、その様なことは不明でも、この歌が十分に成り立つのは、読み手が作者の意図を受け取れるように作られているからです。
あれば=葛原妙子氏の個人的な体験談
呟きになってしまうのです。
関口拝
Re: 葛原妙子の歌 - 不登校
2018/12/08 (Sat) 08:53:38
関口様
作中の主体は、どこにいるのか。
葛原妙子氏は「ゆふぐれの水」の側には立っているとは思えません。「ゆふぐれの水」に立つとするならば、それは眺めるではなく、あたりを見まわすということになります。
確かに葛原妙子は実体験しているわけではないので、歌は仮想です。仮想ですが、仮定でもなく、願望でもなく、想像上の体験です。そうすることによって、真実が実感されるのです。だから、実体験と同じ表現になるべきなのです。それで、インパクトのある歌になるのです。そこに誰もが共感できるほどの普遍性が生まれるのです。これを仮定法で表現すると、歌は個人的な幻想になり、読み手からは「ああ、そうですか」となってしまい、真意が伝わらないばかりか、つまらない歌になってしまいます。
Re: 葛原妙子の歌 - 関口
2018/12/08 (Sat) 15:56:40
不登校様
なるほど、と思いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主体は他界からの眺めを想像して歌を詠んでいます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
という点で、私と不登校様は同意見であるのだけれども、
それを、
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
と、「あらば」になっていると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
歌は個人的な幻想になり、読み手からは「ああ、そうですか」となってしまい、真意が伝わらないばかりか、つまらない歌になってしまいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と捉えていらしゃる。
ということだと私は理解しています。
齟齬が生じているのは、仮定は仮定なのだけれど、それが未然形であるべきか、已然形であるべきか、という点が一致していないと、私は考えています。
少なくとも、仮に已然形であった方が良い(あるいは正しい)としても、葛原妙子氏は「文法を無視」していた訳ではないと思います。
しかして、「あらば」がどうして「あらば」なのかを読み手側が考える努力があってもよいと思うのです。
関口拝