はなぶさむら
これも歌ですか 歌ですね - 不登校
2019/01/02 (Wed) 10:32:16
私にはまったく分からない歌ですが、いくつか、紹介します。
およそ、歌の成立要件が欠けているように思えますが、どうでしょうか。
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ 東直子
かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く 早坂類
としとってぼくがおほねになったとき しゃらしゃらいわせる ひとは いる か な
今橋愛
Re: これも歌ですか 歌ですね - 関口
2019/01/02 (Wed) 12:06:42
不登校様
勇気あるご発言に応えたく、私なりの感想を申し上げます。
一首目は、状況にふさわしくない言葉遊びさが良くないのではと思いました。縋る様な内容なのに、切実さが伝わって来ませんでした。 それから、「電話口でおっ、て言って」「前みたいに」と続くので、一瞬、視覚的に「お前」という言葉が頭の中を過ぎっていきました。「(電話口でおっ、て言って)よ」と「よ」を入れた方が、無理なく読めると思います。
二首目は、「しんしんと」が一首の中で浮いているように感じられました。無理矢理に「しんしんと」を使っているので、かえって、斎藤茂吉の歌を彷彿させられました。
三首目は、最後の空白の使い方が、もしかしたら、遺骨を喚起させるために空けているのかと思いましたが、理解は出来ても共感は出来なかったです。率直な読者としての感想は、「そのようなことを私に言われても困ります」というところに行きついてしまいました。
ただし、これが歌なのか歌でないのかは、作者だけが決めることではない、また、読者だけが決めるものでもない、という思いでおります。
関口拝
Re: これも歌ですか 歌ですね - 不登校
2019/01/05 (Sat) 11:10:41
関口様
少し、力を入れて解釈してみました。
一首目
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ
女は相手の男が自分への関心を無くしていることを感じている。それは、電話口での最初の一声で分かった。前は、男は「おっ」と言った。それは、予期しないときに出る驚きの声だ。少しのびっくりしたように、そして、懐かしむように、続いて、男は「お前か」といったのではないか。One of themの女、相手の関心をつなぎ止められない女、悔しい女、それは自分である。
二首目
かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く
「国道をしんしんとひとりで歩く」ということから、深夜、さびしい気持ちで歩いているのであろう。ひとり、ひとりを2回も繰り返して、「ひとり」を強調している。そして、歩いている国道が傾いているように思えるのは、平衡感覚がなくなって、浮遊しているように思えたのであろう。背景には、男との逢瀬のあと、男からひとりで返されたときのショックがあるのではないか。
三首目
としとってぼくがおほねになったとき しゃらしゃらいわせる ひとは いる か な
「ぼく」は、大人が幼児に向かって時に呼ぶ言い方である。作者は「ぼく」に成り代わって、「ぼく」が骨になったときの気持ちを言っている。「しゃらしゃら」がどういう意味かとれないが、「ぼく」は骨になったとき、自分をしゃらしゃらと踊らせるように、かまってくれる人はいないかな、と言っているのであろう。その人は自分でありたいが、自分は「ぼく」よりその時、とうに死んでいるから、そうできない。「ぼく」を愛でる母親の気持ちだと思う。結句の言葉のなかの空白が視覚的かつ音響的に響く。
Re: これも歌ですか 歌ですね - 関口
2019/01/05 (Sat) 15:04:16
不登校様
「八雁」第43号p94-96を拝読した上で、「敢えて」反論差し上げます。
内容とリズムが合っていない点で、私はこの歌を言葉遊び、あるいは、呟きと感じてしまうのです。
不登校様の解釈は、おそらく作者が汲み取ってほしい部分も丁寧に捉えていると思い、また、解釈を拝読して、私自身の読みの浅さも痛感しました。
そして、「敢えて」反論するならば、この三首はストーリー性はあっても瞬発力が無いのです。「一瞬」をうまく詠えていない。歌の種は一瞬の瞬間的な感情であっても、作りが間延びしているので、すとんと読み下せないのです。
それから、二首目の「ような気がする」と「しんしんと」は、ちぐはぐな組み合わせに感じました。
私自身が「調べ」(調子)というものをまだきちんと会得してないので、うまく言えませんが、耳障りが良い気分ではなかった、というのが率直な意見です。
何か、どこかが、甘えた印象がどうしても拭えないのです。
「調べ」という観点から、不登校様はこの三首をどの様に思われたのか、もし、お時間が赦せば、是非、お尋ねしたいです。
関口拝
Re: これも歌ですか 歌ですね - 不登校
2019/01/06 (Sun) 08:04:42
関口様
お答えします。
八雁43号の該当箇所を読みました。同じことを斉藤茂吉が『作歌実語鈔』で述べている。茂吉はその言説で正岡子規の言うところの短歌形態の定跡を取り上げ、『調ととのふ』といことはどういうことかと述べ、「子規は大体万葉集の歌を標準としてそう極めただらふということが出来る」と言っている。さらに続けて、「あめつちの調べとか、内在率とか、自由律とか、乃至は無法無規とか、さういう呑気千萬のことを云ってゐるのなら、定跡も何も要らぬのであるが、一たび定型に這入って、たたきあげようと覚悟した以上は、先ず以てこの万葉調の定跡を学ばねばならない」という。
それでは、この調べとはなにか。それは古来、日本人が使ってきた音節のつながりだと思う。調べが良いとは、音節が耳に心地よく響き聞こえることだと思う。現在の日本語は大和言葉が先にあって、そのあとに外来語として漢語が輸入され、近代では西洋調の言い回しが取り入られ、現代には米語がカタカナ表現で多く使われるようになってきた結果の混成物だと理解している。
こうした、理解をベースに掲記の三首を評価してみるに、三首とも万葉調ではないことははっきりしている。であるから、これらは短歌ではなく、短歌形式を使った散文であると言ってよい。即ち、八雁のエッセイが述べているところと一致する。ではあるが、散文にしては短すぎて、十分にその主張を読者に伝えることができていない。
また、この三首は「言葉遊び」をしているかと言えば、少しもそういうところは無くて、少なくともその歌は感性の一端を伝えている。しかし、深みは感じられない。これらは軽いタッチの表現を用いるところに特徴があって、現代の風潮、はやりに乗っているのであろう。こうしたものは流行が廃るように、いずれ、消えてゆくものだと思う。